Masato
Shoko
「こんな子初めて見た」と言われ続けた少年
幼少の頃、西陣の実家と清水寺近くにあった祖母の家を往復しながら育つ。身近にいた昔ながらの京都人、京都の職人の世界観を肌で感じ取った。その記憶が進路、職業に大きな影響を与えている。
物心ついた頃より、人から教わることに抵抗があり、すべて自分の頭の中で整理して納得できるものだけ行動に移す性格だった。学校の勉強も同様、鉛筆の代わりにカッターナイフを使って切り絵文字で板書した。算数や数学の授業の際、教科書に載っている方程式を使うことを拒んだ。その代わりに、自作の方程式を発明して問題を解いていた。学校のテストは途中式が違うため0点だった。学外の模擬試験などは学年の上位だった。物理は特に得意で、中学生の時に大学入試の問題がスラスラ解けた。理科の偏差値は90を超えるときもあった。
その反面、国語が大の苦手で読解力テストは常に正解がわからない典型的な理数系だった。
表現することのおもしろさに目覚める
幼稚園の卒園式のときにもらった先生からのお手紙には折り紙博士と書かれていた。幼少の頃、家に戻ったら風船の膨らんだり縮んだり割れたりする性質が面白くずっと風船を膨らませて遊んでいたことを鮮明に覚えている。
小学校中学校は、部活動や生徒会(体育委員長)などスポーツに一生懸命取り組んだ。
PHS携帯電話が普及し始めた高校生の頃、ボール紙を適度に重ねて厚みを出し、着色を施した折りたたみ携帯電話の模型を作って、制服の内ポケットにいつも忍ばせていた。学校生活の中、クラスの空気がどんよりした時に、「トゥルルル〜」といきなり着信音の声マネして受話器を取って場を和ませていた。そんな出来事が、私にとって、ものづくりを通した表現の面白さに気づいた最初のできごとだったと記憶している。
その後、買い物した時のレシートを溜めておいて適度な厚みになるように張り合わせて着色し、革の財布に似せたものを友達に気づいてもらえるまで日常的に使っていたり、吉田カバンの縫い方や作り方など細部の風合いを完全マスターした後に、同じ生地を仕入れて、オリジナルの型紙を作成して、「新作未発表の吉田カバン(実際は手作り品)を手に入れた」などと冗談を言って、友人に譲った。その時にみせた友人の喜んだ顔を、今でも鮮明に覚えている。
高校生活3年間、ものづくりを通していつも何かを表現していた。すごく充実した日々だった。
彫刻家を目指して
大学進学を考える時期に、美術家、芸術家という職業があることを知る。今までやっていたものづくりを職業にできると思い美術の大学に進学する。入学後、金属の彫刻作品を作り始め、各地の国や市が主催する展覧会に出展し、次々と賞をいただいた。大学大学中に、野外彫刻家の日本一を決める現代日本彫刻展に入選したことで自信を持った。
卒業後、プロの彫刻家を目指してアトリエを構える。そんな中で、依頼を受けて制作した作品は「売れる」が、自分の思い通りに作った渾身の力作は、展覧会で賞をいただいて評価はされる一方、「売れない」という当たり前の事実に直面する。
プロの芸術家は、皆、画商と契約していた。私も、プロの芸術家になるために、契約してくれる画商を探した。しかし、契約するには条件があった。これも当たり前のことなのだが、画商の意向に合わせて作品の大きさやモチーフの指定、流行など指示や制約があることに気づかされた。
彫刻家から鞄作家へ
理由は、彫刻家という職業に憧れていたわけではなく、人が喜んでくれるものづくりを通した表現のプロになりたかったからだ。その後、思い通りにものづくりができる居場所を探していた時、「百万遍さんの手づくり市」を、当時の仕事場の同僚が勧めてくれた。即、申し込みハガキを出して、翌月には手作りした鞄を販売した。
その日が、平成19年7月16日onomasatoの創業日である。
円山応挙の末裔として
雪松図(国宝)の作者円山応挙が先祖である事を幼少期より母から聞いていたが、第一子出産の際、戸籍謄本を明治時代までさかのぼって調べたところ、大阪市立美術館が発行する円山応挙の家系図と、先祖の國井應文、國井右橘の名前、出生日が一致した。
彫刻家時代、努力の末に体得したと思い込んでいた、そして、多くの称賛を受けてきた”引き算の美意識”。
実際は、280年経て、円山応挙から8代末裔の小野正人に受け継がれてきたものだった。
福岡出身。英国留学、仕事で米国・豪州に滞在経験あり。
多国籍企業でのビジネス経験を生かし、onomasatoを世界で愛されるブランドに成長させたいと思い、2010年より頑張っています。